野麦街道の歴史

江戸時代以前

 野麦街道の歴史は古く、すでに縄文時代の頃には、この道を通じて人や物の交流があったと言われています。その後奈良時代になると、飛騨国府/高山と信濃国府/松本を結ぶ官道として大和朝廷によって整備され、主に役人などに利用される重要な道になりました。

江戸時代以降

 江戸時代には、天領飛騨国代官所所在地・高山と江戸とを結ぶ公用の道として利用されるとともに、信濃→飛騨へは米や清酒などが、反対に飛騨→信濃へは曲げ物や白木や海産物などの運ばれる物資の通り道でもありました。特に野麦街道を通って運ばれた鰤は「飛騨鰤」と呼ばれ、中南信地域の年取り魚として欠かせなかったといいます。一般庶民の往来が増えてくるのは、江戸時代の中期以降です。その頃には、庶民が旅をする機会も増え、この飛騨高山と松本を結ぶ「野麦街道」と呼ばれる道は、飛騨高山から松本を経て長野にある善光寺へお参りするためにも利用されました。そのため飛騨方面の人たちからは名を変えて「善光寺街道」としてもよく知られていました。

女工哀史

 明治時代に入り岡谷・諏訪地方の製糸産業が盛んになるとともに、飛騨地方からそこへ働きに行く工女たちが野麦街道を行き来するようになりました。このことは小説「ああ、野麦峠」でも有名です。冬の雪降りのなか険しい山道を行くのはつらく厳しい道のりだったことでしょう。「ああ、野麦峠」の主人公・みねも峠において「ああ、飛騨か見える」と言葉を残し、残念ながらふるさとに帰る願いは叶いませんでした。しかし、街道沿いに住む子供たちにとっては、きれいに着飾って街道を行く工女は憧れの的だったといいます。また、一生懸命働いて得た貴重な現金収入を故郷の親に手渡す瞬間を夢見ながら一歩一歩故郷へ近づく道のりは、その辛さを上回る喜びがあったことでしょう。野麦街道は、人の流れとともにそんな一人一人の心をも運んだ道だったのです。
可憐な女工が野麦峠を行く(野麦峠祭りより) 野麦峠より飛騨・野麦集落を望む

 

現在の野麦街道

 時は流れ峠越えの車道がついた今でも、奈川地区・川浦のわさび沢から岐阜県高山市・野麦の集落近くまでの約5キロほどの区間は、「旧野麦街道」として車道とは別に、かつての面影も鮮やかな昔ながらの野麦街道が残っています。わさび沢の駐車場に車を止めて野麦街道に一歩踏み入れたその瞬間から、刻々と変化する豊かな緑と小鳥のさえずり、乾いたのどを潤す沢の水などがいつでもやさしく私たちを迎えてくれます。

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