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田中県政の勇気 林 奉文
行政の基本は財政であり、それを見て田中県政の基本を理解することが大切です。
まず、田中知事は、大型公共事業を減らし、借金と利息支払いを減らしました。
脱ダム宣言に象徴されるように無駄な公共事業をやめて、県民の暮らしに密着した公共事業に切り替え、新たな雇用を創出し、地元企業が直接仕事を取れるように大きく転換しました。その結果、借金を平成15年度で970億円、16年度で1100億円減らしています。吉村県政によってつくられた1兆6500億円もの借金のおかげで、利息だけで1日1億4800万円返していたのを、田中県政は15年度末には1億1500万円にまで減らし、毎日3300万円、年間では120億円もの節約ができています。
日本の借金が700兆円を越え、経済大国であったはずの日本は大変な過重債務国に転落しました。そんな中でこんなに借金を減らしたのは長野県だけ、長野県の財政改革は田中知事でなければ出来なかったことです。それは職員の給料の削減など痛みを伴う荒療治であったけれども、それでも首長として財政の立て直しという決して避けては通れない問題について、大胆に踏み来んでやって来たことは大変評価出来ます。
次に、入札制度を改革し、談合を出来なくさせました。
大型公共事業を減らす上で大事な事の一つが入札制度の改革です。今までは100%の官製談合で、設定価格の99.8%という100%に近い単価で落札し、完全に情報が業者に流れていました。これは殆どの県で未だに行われています。田中県政は、これまでの指名競争入札から、参加希望型郵便入札にし、県内のどの業者でも入札出来るようにし、談合の出来ない仕組みを作りました。その結果、低入札が行われ、半年で87億円も入札差金が出て、そのお金で継続事業の前倒しの発注ができました。これは、1000m道路が出来る予算で更に200mできるということ、県民にとってみれば、大切な税金が有効に使われるということです。
更に、無駄な公共事業を減らして福祉や教育、環境に力を入れる財政に、県政の重点を移しました。
小学校の30人規模学級が3年生まで全額県負担で実現、平成17年度からは4年生まで県の負担でという決断をし、教育予算が土木予算を抜いてトップに躍り出るという状況になっています。また、障害者の自立支援に力を入れ、2004年10月から各地方事務所単位につくった障害者自立支援センターでは、障害を持った皆さんにどういう支援が必要で、どうフォローすれば就職出来るのか、きめ細かなサポートがされています。駒ヶ根にもすでに3ヶ所のグループホームが出来、死ぬまで施設の中で暮らしていくしかないと思っていたみなさんが、「こんなにも地域の中で人間らしく暮らしていけるようになった、夢のようだ」と言っています。
このように、田中知事はかつての県政の無駄を省き、勇気を持って無駄な土木費を削り、福祉・教育・環境予算を増やしました。
誰が田中県政を潰そうとし、それはどういう理由からかを、財政という面からみてみると、私たちが守るべきものは何かが明らかになります。
県政を無欲と自律の場に 北山 早苗
私は、田中康夫さんという人は、究極の無欲さと自律心のある人で、それを自分だけでなく、他人、もしかしたら県民全体にも期待しているのだと思います。
田中知事はこれまでのピラミッド構造の政治の世界を壊して、平らにした人です。
政治の世界だけでなく、自分の手下に人を置いて、ピラミッド構造のトップで君臨したいという人は、何処の世界にも居ます。私は12年間教員をやっていましたが、学校はまるでそういう世界の縮図みたいな所でした。
議会は、従来から延々と続いたピラミッド構造の世界の代表が集まっているのですから、田中知事と、本来上手く行くわけないのです。そういう世界の人しか、政治の舞台にあがれない所に、悲劇があるような気がします。
でも、私たちは、そういう世界から、行政の援助など受けなくても、真面目に働いている普通の人たちの所に政治を取り戻したい、そんな気持ちで、田中さんを知事にしたのではないでしょうか?
田中さんは、そういう世界の代表の議員は無視して、また、未だ意識の変わらない多くの職員は無視して、真面目に働いている普通の県民と一緒に、県政をやろうとしているのではないかなと、私は思っています。
普通の県民はだれも田中さんに気に入られようなどとは思っていません。それどころか、これまで知事が名刺を直接県民に配ったりするような事はなかったから、名刺を貰っただけで、嬉しく思います。
そういう県民がメールを送ったら、それが私利私欲なく、本当にこんなのっておかしいよというものであるなら、きっと田中知事の目に触れれば、田中さんはきっと関心を持つはずです。
田中さんを選挙で応援した人も、選挙を離れれば、このような一般の県民と同じになるべきではないでしょうか?
従来から良く行われているように、「応援してやったから言うことを聞け!」などと言うのは、禁物です。
私は行政などあてにせずに、ただ黙々と働いている普通の県民の一人でした。「安曇野山麓縦断の松本糸魚川連絡道路のような必要のないものを、行政が造るのだけはやめて欲しい」と思っていた所に、田中さんが知事候補として登場しました。だから応援し、そして、あまりに議会に普通の人の代表がいないから議員にもなりました。願わくば、もっと私のような議員がどんどん増えて欲しいと思っています。私のような普通の人が、順番で、政治の場で発言していく世の中になって欲しいと思っています。
田中知事のことを、「イエスマンしか回りに置かず、自分に反対意見を言う人は遠ざける裸の王様だ」「自分に絶対服従する人間しか信じず、度量がない」という人が居ます。でも私は「ホントかな?」と思います。
田中知事は、人に、自分と同じように無欲さと自律心を期待しています。ところが、悲しい事に、トップのまわりにはいつも、知事に気に入られたいという欲のある人が集まり、そういう人に限って能力がないから、自律心がないけれど、それを隠しています。また、民間はトップに楯突けば首ですが、県職員は首には出来ません。だから、公務員の意識改革は思った以上に大変なことです。
でも、不思議なことに、田中さんの回りからいつの間にか『知事に気に入られたい欲のある人は』消えていきます。田中知事が求める、無欲さと自律心ある県職員は確実に増えています。それは、田中さん自身が、究極の無欲さと、自律心のある人だからではないでしょうか。
私は、県民の誰もが、自分の思いが無欲で自律心あるものなら、田中さんにぶつけていけば良いんじゃないかなと思っています。田中知事ぐらい、県政に於いて、『特別な人』ではなく『県民誰も』が、何でも言えるようにした人はいないと思います。
振(ぶ)れているのは誰か? 宮川 速雄
かつて、田中康夫を知事選挙に担ぎ出した C 氏やY嬢が田中康夫の下を去った。
彼らの意見は、一見正当のようだが、その本質は、善光寺ファミリーの論理でしかない。
つまり、長野県は長野市の長野県であって、決して、松本市や飯田市や上田市の長野県ではないのだ。だから、長野県の知事は、長野市に居なければならず、泰阜村や軽井沢町に居てはいけないのだ、と・・・・。
C 氏は、長野県経済界の重鎮と言われた人だが、企業優先、経済優先の思想は、田中康夫の相入れないところだ。彼はまた、N市の市長も担ぎ出した人であり、政治的な信条は何も無い。
C 氏は、「N市の市長は、市政に民間感覚を取り入れている」と、誉めそやしているが、所詮は、民間企業感覚であって、上意下達の企業世界を見落としている。
Y嬢は、ゲージュツと称する作品をもって前県政に深く関わっていた人だが、ゆえあってその作品の売り込み先を田中康夫に変えただけだ。
つまり、二人に共通していることは、知事になった田中康夫を目論み通り利用出来なくなったために、一見正当らしい意見を述べながら自己保身を図っているに過ぎない。
彼らは、長野市の名士(迷士)かも知れないが、これを利権の復活を画策する議員と善光寺メディアが個人的な感情を交えて、それがあたかも真実のように伝え、田中康夫の追い落としに利用している。利用されていることに気が付かない、哀れな名士だ。
田中康夫は、就任以来福祉(医療)・教育・環境に農業・製造業・観光を組み合わせた政策を一貫して行ってきている。その姿勢は、崩れてもいないし崩してもいない。枝や葉が茂った大木に例えるなら、強風に煽られて揺れているように見える大木も揺れているのは、枝や葉だけであって幹は、しっかりと大地に根を張ってびくともしていない。
田中康夫が幹であることを忘れて、枝や葉が騒ぐのに驚き、慌てふためいていては、田中康夫の本質は見抜けない。田中康夫が切り捨てようとしている、前県政の利権に預かった者や利用しようとした者からすれば、確かに、田中康夫は県政にいてはならない存在だ。
だからこそ、今、長野県政に田中康夫が必要なのだ。
田中康夫をこよなく愛する上田市の風流人、益子輝之がその著書・[崖っぷち、ヤッシー君への応援歌]のあとがきで、『素人は、ずっと玄人から発言を禁じられてきた。「素人は、黙っていろ」と。プロが優秀な時代はよかった。いつの頃からか、プロが信用できなくなった。プロの実力が、頼りにならなくなった。政治・行政の世界でも、芸能界でも、文化の世界でも、マスコミでも』と書いている。
そして、田中康夫が政治には玄人でないアマチュア知事だからこそ県政改革ができる、と期待している。
2005年2月
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